New!第38回
「大阪」
梅雨の半ば、久しぶりに大阪を訪れ、この地の来歴をあれこれ考えた。大阪城の堀を隔てた向かいに、難波の宮の跡に置かれた公園がある。飛鳥と奈良の時代にわたって築かれた宮殿はその後焼失し、遺構が注目されたのは近年のこと。戦後、場所が特定され発掘が始まり、宮殿の中心となる太極殿の跡が発見されて国の史跡になった。出土した品は、隣の大阪歴史博物館に展示がある。その過程で高速道路の建設が始まったが、工事が土中の埋蔵品を壊すという意見が出て、地下工事をやめ地上を通す道路が脇を走るようになった。遺跡に配慮した工法の選択を好ましく思う。
明日香と奈良時代は主に奈良盆地で政治が行われたものの、奈良から難波に都が移されたのは、百済、高句麗、新羅など外国の使節を迎えるのに便利な海に近い地が求められたためか。日本書紀の孝徳天皇紀は、大化元年十二月に「天皇、都を難波長柄豊崎に遷す」と記し、その8年後、「宮造ることすでにをはりぬ。其の宮殿の状、ことごとくにいふべからず」と、かつてない規模と形状のものが造られたことを述べている。
その後中世に、この地は商業や流通の拠点として大発展を遂げた。大きな起伏のある地の意味で大坂と呼ばれ記されていたところが、大いに栄えるの意味に転嫁されて大阪と表記されるようになったらしい。大阪城に行ってみると、大手門の入り口近く、枡形と呼ばれる場所の石垣の巨石に圧倒される。ボランティア・ガイドの説明では、秀吉の時代に防衛上の必要と存在感を示すためにこれらの巨石が置かれたいう。敵の侵入を食い止め、さらに威容を誇示する狙いもあったろう。ではどうやってこの巨石をここまで運んだのだろうか。石は小豆島産とみられ、切り出した石材を干満の差が激しい瀬戸内の干潮時に船へ乗せ、満潮時に海へ繰り出して大阪まで運ぶ。そしてコロなどを敷いた上に乗せ、陸送したのだろうという。城も堀も、豊臣、徳川と代を変えて整備されていく。現在の大阪城は戦後の再建だ。
江戸時代の大阪はさらに独自の発展をする。多くの藩が蔵屋敷を置いて年貢米や生産物の売却にあたったり、それを担保に金融活動を行う拠点とした。これらの経済活動から、大阪は天下の台所と呼ばれるまでになる。もっとも天保の大飢饉では食料不足から民衆が困窮し、町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎と門人が幕府に救済を求めた武装蜂起も起きている。
難波という言葉はその後も残り、商売に巧みな難波商人は現在も活躍中だ。その背景から文芸が目覚ましく発達して、文楽や歌舞伎が生まれてくる。近松門左衛門がその作品を提供し、井原西鶴の浮世草子と呼ばれる読み物も大いにはやった。人形浄瑠璃の文楽はこの地の誇る人形芝居で、国立の文楽劇場を唯一抱えるのも大阪だ。
人との濃厚な接触を好む気質からは、漫才のようなやり取りの芸がもてはやされるようになる。吉本を覗いてみようと、本拠地のなんばグランド花月へ行ってみたが、あいにく当日券は売り切れの人気だった。思い直してそこから遠くない黒門市場に足を向ける。鮮魚店や青果店のほか飲食店が軒を連ね、外国人の観光客も含めてにぎわっている。その活気に圧倒されながら道を進んだ。
大坂の新名所、あべのハルカスも訪れ、地上300mの展望台から周囲を眺めてみる。眼下には高速道路が見事な屈曲を見せ、奈良時代に起源をもつ四天王寺をはじめ大阪港が目を引き、遠くには生駒山や古墳群もある。
大坂を副首都とする議論が進むが、どう決着するにせよ、大阪はわが道を行くだろう。
(2026.7)
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