第19回
「シアトルの変遷」
シアトルに行って来た。国際商標協会INTAの総会に顔を出すためで、この地を訪れるのは三度目となる。
最初は2000年の夏、ワシントン大学で開かれた知財セミナーの講師に招かれ、知的財産保護のTRIPS協定とAPECとの関係について話した時だった。今なら、同協定とTPPといったテーマとなったかもしれない。同時に招かれていた知財界の世界的に著名な学者、裁判官らと親しくなるいい機会だった。
次は2009年のINTAで、今度の会合に先立つ総会だ。ボーイングの工場見学があり、その規模に驚いた記憶がある。それから9年を経て、INTAがまた当地で開かれたのだが、時を置いて三度この地を訪れてみると、その変遷を感じ、目の行き所も違ってくる。
シアトルの空港から市内に入り、港の横を通った時、いきなり中国の国名のあるコンテナーが、目にいっぱい飛び込んできた。貿易不均衡を主張するアメリカの言い分そのままに、大変な貨物が中国から太平洋を渡って、この港に届いているのだろう。かつてイエローストーン国立公園に行く道筋で踏切に差し掛かったところ、延々と続く貨物列車のすべてが中国荷のコンテナーで、その通過まで、ゲートが開くのをさんざん待たされたことを思い出した。シアトルなどの西海岸にたどり着いた中国発の荷物は、こうして大陸横断の列車で各地に運ばれていく。
国際会議場内のINTAレセプション会場には、市の移り変わりを展示や映像で追うしかけがあり、19世紀には未開の土地が今日のハイテク企業がひしめく場所に変っていく様子がわかった。このレセプションでは中国、香港、フィリピンなどアジア系の出席者と多く談笑する機会を持ち、マケドニアの弁護士にも会った。駐日大使の経験があり、皇居で天皇に拝謁した時の写真を見せてくれた。
各国の知財事務所などが宣伝用のブースを出す展示場では、ここも中国の存在感が大きい。出展している特許事務所の数で中国は十近くあり、他国を断然引き離している。展示の説明員は、昔から米西海岸には中国人が多かったのだから当然だと言う。苦力と呼ばれる中国からの移民が、港湾の荷役業や鉄道建設に動員された歴史を思い出した。永井荷風の「あめりか物語」に、牧場の道、と題した一章がある。明治の中頃、同じように日本から出稼ぎにきた移民がシアトルでひどい目に合う話だが、アメリカがいい稼ぎ口に見えた時代が日本にもあった。
中南米を本拠とする事務所も元気で、彼らの展示場では、扮装したカリブの海賊の相手をさせられた。
シアトルから遠くないところに、雪を頂いてくっきりと目立つ山がそびえている。レニヤー山といい、日系移民たちはこれをタコマ富士と呼んで、故国を偲んでいたという。
会期中、この山を訪れるツアーに参加した。南米やアジア系の客を10数人載せて、運転手を兼ねた中年のガイドが、バスで頂上付近まで連れて行ってくれる。
このガイドはあるときまで地元のIT企業で働いていたが、途中から自然に親しみたいという年来の希望で職を転じたと、自己紹介してくれた。レニヤー山のふもと近く、車を降りて、樹齢が千年近い針葉樹を示しながら、国立公園ともなっている景観のすばらしさを語る。そして前の観光客が捨てた煙草の吸殻を目ざとく見つけ、さっと拾うとポケットに押し込んだ。環境を守るものの心得だろう。ここにはまた、早稲田大学の学生ボランティアが来て遊歩道を整備したことの表示もあった。日本とシアトルの新しいつながりが認められる。4000メートルを超す山の頂上付近は雪渓が広がり、スキーを試みる人が徒歩で登っていく姿も見られた。
INTAの催しが終わって、帰国を前に、シアトル郊外のベルヴューという町に宿を移した。そこは高速道路が横を走り、わきにはレクサスの販売拠点がある。つまり日本との関係をいくらか感じさせる所でもある。宿の窓から高層ビルの副都心が近いことを確かめて、散歩に出た。町は碁盤の目状に区画され、街路には整然と番号が振られている。マイクロソフトビルのわきを抜け、イタリア料理のレストランを目指した。日が長いのであたりは明るいが、夜8時すぎともなると人通りがほとんどない。殺風景な計画都市だなと思いながらレストランにたどり着き、夕食をとって今度の旅を振り返った。
シアトルはスターバックスコーヒーの発祥地で、しかもジェット機の生産拠点、IT関連の企業も多く、繁栄を続けている。しかしこうした産業集積には、太平洋の反対側のアジアの貢献もあるのだと、しみじみ思った。
(2018.7)
|