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コラム

知財風土記

第30回 
「日本の弁理士制度」

 弁理士法の改正で、従来の特許業務法人は弁理士法人に改まった。そもそもこの弁理士とは、日本でどのようないきさつから生まれたのだろうか。
 明治32(1899)年、特許代理業者登録規則というものが、勅令によって交付される。日本で弁理士が生まれるきっかけになったといわれ、同年のパリ条約の加盟と図らずも時期が一致している。これには事情があった。
 日本の知的財産保護は明治17(1884)年の商標条例制定に始まり、翌明治18(1885)年の専売特許条例、さらに2年後の明治20(1888)年の意匠条例と続いて、その基礎が定まった。しかし実績がないところ、それをどう運用していったらいいか、明治政府は初代の専売特許所長、高橋是清に命じて欧米の実態調査に向かわせる。
 高橋は若年のころ海外で放浪生活をし、英語ができたため、まずアメリカに4か月以上も滞在した。その間特許庁や民間の特許事務所で実務をつぶさに見て、必要な情報や友人を得ている。さらに日本が審査制度を採用すると必要になる文献として、米国特許公報も5年分さかのぼって贈与を受けるなどの手配を整えた。ヨーロッパに渡り、官僚的で非効率なイギリス、無審査制度のフランスや歴史の浅いドイツも見たうえで、結局アメリカ型の移植を図る。そして書類の包袋管理など、今日に伝わる方法まで持ち込んでいる。
 当時の日本は外国の模倣をこととし、ものづくりではコピーが氾濫していた。当然外国からは、勝手な模倣の取り締まりと、特許や商標の制度を充実させ、日本人に限られていたその保護を外国人にも及ぼすことを強く求められた。
 外国人に日本人と同様の保護を及ぼすのは、内外人平等を定めたパリ条約に加入するのが前提だ。しかし当時の日本は、関税の自主権がなく、外国人に治外法権を認めたいわゆる不平等条約を結ばされていて、この改正が課題だった。
 高橋は欧米視察の過程で懇意になった知人から、日本が不平等条約を改正しようとするなら、パリ条約の加盟と外国人に同等の保護を及ぼす措置は、改正交渉と並行して行わなくてはだめだ、さもないと日本の特許保護を見届けて相手国は改正に尽力しなくなるだろう、といわれていた。高橋は専売特許所長を数年で退くが、彼の意見はその後の政府方針として維持され、世紀末の年までパリ条約の加入は先送りされる。日本が外国人の著作物を保護するベルヌ条約に加盟し著作権法を制定したのも、やはり明治32(1899)年のことだった。
 特許代理業者の呼称はやがて特許弁理士に改められ、最終的に弁理士で落ち着く。その先駆けの特許代理業者登録規則を見ると、特許、意匠または商標に関する代理を常業とするものと定められている。また、能力者にしてかつ試験に合格した者など、その資格も決められた。こうして特許代理業者が誕生し、外国人にもようやく代理人を通じ、日本で特許等の保護を求める道が開かれたのである。つまり制度の国際化が始まったことになる。
 今日の弁理士法を見ると、弁理士は知的財産の専門家として、その適正な保護と運用を使命とする旨定められている。また、業の及ぶ範囲は、特許、実用新案、意匠、商標をはじめとして、不正競争がらみの事件、著作権、回路配置や植物の新品種、データや地理的表示の保護などにまでわたっている。知的財産の概念が年とともに広がるにつれ、弁理士に期待される業務の範囲も広がっていくことだろう。一人の専門家がそれを担うことは容易でないから、当然、スタッフによるチームワークが必要になる。弁理士法人が成立する基盤は、そこにある。
 弁理士はその成り立ちからして業務は国際性を帯びていたが、経済のグローバル化に後押しされ、国際的な連携が欠かせないものになっている。
 (2022.11)

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