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コラム

知財風土記

第26回 
「石見銀山」

 立冬の日、世界遺産の石見銀山を訪れた。小雨が煙るなか、傘を差して案内人の導きで遊歩道を歩み、龍源寺間歩と呼ばれるかつての採掘口に向かう。常緑樹の緑が歩道を挟むところどころ、まさに見ごろの紅葉が現れて目を楽しませる。
 銀山の町大森は、江戸時代の最盛期に中国地方随一の人口20万人を抱えていたという。けれども採掘が行われなくなった現在の住民は、4百人ほど。道沿いにある小学校の全校生徒は14人で、一人ひとりが手掛けた鉢植えの花が、入り口の階段を飾っていた。
 間歩に近い小川の端に止まり、案内人がそこに生えている羊歯を指さした。一見どこにでもあるような羊歯だが、ヘビノネゴザと呼ばれる特別な羊歯だという。重金属に富んだ土壌に生えるのが特徴で、これの生える所は銀鉱が眠っている可能性が強く、採鉱に血眼の山師たちは見つけると驚喜したらしい。一山当てるという言葉があるように、リスクを負いながら貴金属を追い求める人たちが古くからいた。しかし多くは夢破れ、破産していくのが現実だった。
ヘビノネゴザと呼ばれる羊歯  銀山の歴史は、16世紀の初めに銀鉱が発見されたのがきっかけといわれる。以来、戦国大名が何人も争いを経て代わりながらこの地を支配し、徳川の天下となって、江戸時代に最盛期を迎える。16世紀半ばから17世紀初めには、世界の産銀量の三分の一に達するほどだった。石見の銀は、交易品として世界の商品になる。
 それを可能にしたのは、採掘した鉱石から銀を取り出す精錬技術の革新だった。16世紀のうちに、朝鮮など東アジアに広がっていた灰吹き法と呼ばれる方法が採用される。炉の下面のくぼみに灰を詰め、銀と鉛の混合物を上にのせて加熱すると、鉛だけが解けて灰に吸収され、あとに銀塊が残る。この技術は銀の生産性を高め、石見だけでなく国内各地に精錬法として普及していく。石見銀山奉行の大久保長安は、のちに同じ天領の佐渡金山の奉行も兼ね、石見の技術を佐渡にもたらした。代官所には、優秀な人材が集められていた。
 いよいよ龍源寺間歩に入っていく。こうした坑道は石見に九百近くあるが、唯一公開されているものだ。人が立って歩けるほどの大きさの横穴がまず掘られ、そこからさらに脇へ、岩石の隙間の板のような鉱脈を追って、ひおい坑という採掘坑が掘られていく。人がかがんで通り抜けるほどの高さや幅しかない。間歩にたまった水の排水用には、竪坑も掘られた。
 暗闇を照らす、サザエの殻に菜種油を入れた携帯用の照明器具「らとう」を使った作業の絵図が残されている。弱視につながる暗さに加え、採掘時の粉塵は坑夫の体を蝕んだ。後には粉塵除けの、絹地に柿渋を塗り梅肉を練りこんだ防塵マスクも考案され、使われた。労働時間は1日5時間に制限されていたというが、過酷な労働条件下の採鉱は、まさに命を縮める作業だったろう。間歩を出て遊歩道を引き返しながら、そのわきにある寺が、銀山の作業で若くして命を落とした人の菩提を弔ったことを知る。
石見銀山の町大森の町並み  銀山を下り、武家屋敷や代官所などのある大森の町並みに入る。全体が重要伝統的建造物群保存地区に選定され、古い町並みの風情がよく残されている。その中の一軒、旧河島家に足を向けた。代官所地役人の住宅で、大森を襲う寛政の大火後に再建され、さらに近年、手が入れられている。座敷の縁側に座し、簡素な庭越しに背後の山の借景を眺めた。
 (2020.12)

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